日常をただ綴るだけの、とりとめのない覚書第4弾(4で合ってる?)。
吐き出すと楽になるので、吐き出させてください。
ワクチンを打ちにいくとのことで、親から万が一のためにと遺書が届きました。「何かあったら、これを見ろ」と。
大丈夫だったので結局不要だったのですが、それが送られてきたときのあの冷水を浴びせられたような感覚が忘れられません。
やめてくれ。
冗談でも、そんなこと言わないでくれ。
想像しただけで泣いてしまいます。
今このテキストを打ちながらも、涙が止まりません。
「その日」は必ず来る。私が健康である限りは。
分かってるけど。
分かっているんだけど。
だめ、受け止められない。
結果的に不要になったそれを今すぐ捨てることもできるけど、他の原因で「万が一」はいくらでもありえて。
ひとまず視界に入らないところにそれを突っ込みました。
今、私が一見やっていけているようにみえるのは、「何かあったら実家に帰ればいい」という甘えや逃げが心の中に存在しているからです。
親に甘やかされて育った私は、心の中で「親になら何をしても許される」とどこかで思っています。絶対に見捨てられないだろう、と。
何て自己中心的で、傲慢。
親に万が一がないようにと祈るのは、決して親のためではなく、私のためなのです。
我ながら救いようがありません。
実家に帰る度に、抱きしめる度に、「あぁ、こんなに小さかったっけ、細かったっけ」とその感覚に戸惑います。小さい頃はあんなに頼りがいがあったのに。
祖父母世代が今年で全員、この世を去りました。みんな80代以上の大往生でした。
親は気丈でした。私のほうが泣いていました。どこかで覚悟を決めていたのでしょうか。
自分は小さいころから「老人を敬え」という風潮が少し嫌いでした。何もせず空気を吸っているだけでいいのに、何を敬うことがある?と。
今となっては「生きる」だけで難しい、と切実に思います。仕事して、家事して、どこかで将来設計して色んなことを考えて取捨選択して。「人生は選択肢の連続だ」っていう銀魂の言葉(タイトルだけど)は本当にその通り。生きることを投げ出さいほうが難しいんじゃないか?生きているだけで十分じゃないか。元気に健康に笑ってくれてさえいれば、それで最高じゃないか。
与えられた生をまっとうすることは、とても素晴らしいと思います(まぁ、究極的には自己責任だと思うので、自殺を選ぶ人を止める気もありませんが)。
あのまま実家にいたほうがよかったんじゃないか、と実家に戻る度に思うこともあるけど、でもやっぱり一人で生きていく力は必要だと思うし、一人暮らし故の自由さを今や謳歌していて、過去の選択を後悔していません。これでよかったと思う。
何かまとまりのない文章になってしまった。
総合すると。
末永く元気でいてね、お母さん。